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遠州掛塚(砂町)で明治から昭和40年頃まで、刳り物や挽き物などの木工製品を製作していた「くりものや」 2017年秋、二人の三代目により、くりものやが復活しました。

くりものやとバット

ずいぶん久しぶりの「くりものやの歴史」です。

終戦後、間もない頃のお話。
復員してきた郁郎おじちゃんは、先輩から野球を教わって、野球チームを作りました。

(後列:左から二番目が郁郎おじちゃん、右から三番目が英男おじちゃん ともに故人
 前列:右から二番目が親父 正男)

これは、それからずいぶん後の写真じゃないかと思います。

なにしろ、初めの頃は道具も何もなくて、グローブは厚い布を縫ってボロ切れを詰めたもの。
バットはどうしたかって?
広報紙「みんなと倶楽部」第2号に掲載された、郁郎おじちゃんのインタビュー記事によれば、
「バットは親父の知恵を借りながら『くりものや』の旋盤で回転数を調整し試行錯誤して作った」んだそうです。
日本野球連盟非公認です(笑)
写真にも、それらしきバットが写ってますね。

そして今、三代目たちは、
 
こんなものの試作に取り組んでいます。
これ以上は、ヒ・ミ・ツ です(笑)

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くりものや流の供養でしょ

母の葬儀の日、火葬場に行って荼毘に付した後、葬儀場に戻って三日目の法要も終わり、おっさま(和尚さん)が、「お霊供膳の作り方」という紙をくださいました。

ふむふむ
なぜに断面図?
もう頭の中は

こんな風に、
木工旋盤でどうやって作ろうかな?
という考えでいっぱいになりました(笑)

そういえば、去年親父に「くりものやではどんなものを作ってたの?」と聞いたときに、霊供椀をたくさん作ったって言ってました。
なんでも、掛塚で郁郎おじちゃんや親父と仲のよかった人が、静岡の大きな仏具屋さんに婿養子に行って、そこから注文をもらったんだそうです。
静岡は駿河蒔絵が盛んだったので、くりものやで作った木地には漆が塗られ、金銀の蒔絵が施されて立派な霊供椀になったのでしょう。

蒔絵はできないけど、手作りの椀でご飯を食べてもらおう!
でも、いっぺんにはできないからなぁ。
と思っていたら、

葬儀一式に含まれていたようで、翌日葬儀屋さんがプラスチックの霊供膳を届けてくれました。

そうなったら、やることはひとつ

採寸です(笑)

材料は何にしようかな?
ケヤキかな?桜かな?
「香春」という戒名を付けてもらったから桜にしよう!

まずは、汁椀を作ってみました。
お得意のガラスコート仕上げ。

こうやって少しずつ作って、七日目ごとにプラスチックの椀と入れ替えていこう。
そうすりゃ、母もおっさまも毎回楽しみだら?(笑)

たんすの傷は…


これは母の嫁入り道具のたんすです。
大工だった祖父 太作が持たせてくれたもので、母はそりゃあもう大切にして、ことあるごとに「じいじが買ってくれた大事なたんす」であることを話してくれてました。

実はこのたんす、自分にとっては心の棘なのです。


この傷がね。

これ、小学校2年生のときに、ノコギリで切った傷なんです。
原因は忘れちゃいましたが、母に叱られて、その仕返し(?)にやったんですよ。
母が一番大切にしているものだから。我ながらイヤなガキです。

この傷を見つけた母は烈火のごとく怒って、バシバシ叩かれました。
たまたま裏から顔を出した隣の奥さんが止めてくれなければ、マジで殺されると思いました(笑)

背比べの柱の傷は微笑ましいけれど、たんすの傷は心の棘なんです。
謝っても謝りきれない。他にも謝りたいことはいっぱいあるけど…

その母が先日他界しました。

今まで、この傷を埋めようか?いや、そのままにしようか?と迷ってここまで来ましたが、戒めのため(?)このまま残そうと決めました。

その代わりと言っては何だけど、以前書いた母のくけ台
どこかにいっちゃって見つからない針山の部分を作って、これを葬儀会場に展示しました。
くけ台を使って裁縫をしている姿が子供の頃の記憶に焼きついているから。


お雑煮食べて頑張ってます


「なにを時期外れな」って思うでしょ?
これ、2/11のくりものやの朝食です。
ちなみに2/12も雑煮でした(笑)

昔から我が家(実家)では、1月の間はほぼ毎日、年によっては2月に入っても雑煮でした。
年末についたお餅がなくなると、追加で餅つきしてました。

他の家では雑煮を食べるのは元旦だけとか、せいぜい三が日だけと知ってびっくりしたもんです(笑)
こんなに雑煮が好きなのは、うちの親父だけだと思ってたんですが、修ちゃんの家(親父の実家ですね)でも昔は1月じゅう雑煮だったそうです。

これは、くりものやの伝統だったんですね(笑)

死ぬ前にまた見れるとは思わなかったよ



従姉妹に頼まれていた「こんぱち」(お正月に神様にお餅をお供えするためのお皿)ができたので、「取りに来てね」と伝えておいたら、伯母も一緒に来てくれました。

親父の兄弟は、上が女二人、その下に男4人。
存命なのは、この伯母と親父の二人だけになっちゃいました。
今年93歳になる伯母は、耳が遠いのと、歩くのに杖が要るほかは、しっかりしていて元気です。
「くりものやってて怖くはないけ?」
と、真っ先に心配をしてくれるのは、気を抜くとケガをするって知ってる、くりものやの娘だからですね。
ありがとね。気をつけてやるでね。
「織り屋の糸巻きの仕事をたくさんやっただよ。忙しいときは、男の衆と一緒におばあさ(私の祖母ハナさん)も作っただに」と教えてくれました。
それは初耳。
下の写真、左から2番目が祖母 ハナさんです。


手近にあったオニグルミの板で、小さなお皿を作るところを見てもらうと、「死ぬ前にまた見れるとは思わなかったよ」と同じことを何度も何度も言いながら、懐かしそうに目を細めてました。
いやいや、まだまだ長生きして、何度でも見に来てよ、おばちゃん


そうそう。
おばちゃんが来ている間に、これが届きました。

以前にも何度か書いたように、ひいじいちゃんは木挽き(今の製材屋)をしていた(ひいおじいちゃんの大鋸)わけですが、その道具である大鋸です。
掛塚の鍛冶屋さんが作った大鋸が、栃木の骨董屋さんで売られているのを発見して早速購入(^_^)

「大おじいさは、こういう鋸で大きな丸太を切ってただに」と、伯母はこれも懐かしそうでした。

この大鋸については、これからも何度か登場することになると思います。