忍者ブログ

遠州掛塚(砂町)で明治から昭和40年頃まで、刳り物や挽き物などの木工製品を製作していた「くりものや」 2017年秋、二人の三代目により、くりものやが復活しました。

独楽の形の謎を解く新たな事実が判明

さて、前回は祖父 忠作さんにスポットを当てましたが、今回は曽祖父 政蔵(まさぞう)さんの登場です。


政蔵さんは、くりものやではなく木挽き職人(今でいうと製材屋さん)でした。
掛塚の町は江戸時代から、天竜の山の木を伐採し、天竜川を筏で流し、掛塚で丸太を板や角材に加工して船で江戸に出荷する湊町として栄えました。
当時は製材機械はありませんでしたから、大鋸(おが)と呼ばれる幅の広い鋸を使って職人が手で挽いて製材していたのです。湊近くには木挽き小屋が立ち並び100人以上の木挽き職人が働いていたそうです。

しかし、少し上流に鉄道が開通したことや、機械を使った製材工場が山間地にも作られるようになって、明治の終わり頃には木材の町としての掛塚は衰退してしまいます。

その頃、政蔵さんはまだまだ現役世代だったはず。
くりものやを始めたのは、その息子 忠作さんだし、政蔵さんは何をしていたのかな?
親父に尋ねてみると、
「木挽きとして北海道や九州に出かけて行って仕事をしてただよ」
ん?!!!
ちょ、ちょっと待って!
今、九州って言った?

そうです。この辺では他に見当たらない、くりものやの独楽の形。

調べたところ、九州の独楽だけが同じように芯が上に突き抜けていないのが判明したものの、九州との接点が謎のままでした。(独楽の形はどこから由来したの?
念を押すと「よかぁわからんけぇが、とにかく全国あちこち行っただって」とトーンダウンする親父でしたが…(笑)


掛塚の鋸鍛治の作る大鋸は性能がよくて信州や甲州まで売れたとか、掛塚の木挽きは仕事が早く他地域の木挽きの三日分の仕事をこなした、遠く木曽の山中でも仕事したという話は本で読んだことがあったけど、まさか全国で活躍していたとは知りませんでした。
政蔵さんが九州から持ち帰った独楽があったので、忠作さんはそれを参考にした…という説が今のところ有力かなぁ。

親父は、九州の独楽のことは何もしらなかったので、「ほぉ〜、そうかや」と目を丸くして驚いていましたよ〜(笑)

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字