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遠州掛塚(砂町)で明治から昭和40年頃まで、刳り物や挽き物などの木工製品を製作していた「くりものや」 2017年秋、二人の三代目により、くりものやが復活しました。

筏がつなぐ佐久間と掛塚のご縁

遠州の民俗文化を研究する団体「」が、浜松市天竜区佐久間町の民俗文化を中心に、四年がかりで住民から聞き取った成果をまとめた報告書「佐久間の民俗」を発刊し、佐久間歴史と民話の郷会館で記念の集いが開かれたので行ってきました。

 

460ページを超える立派な報告書の中で、木材の運搬を中心とした「交通・交易・運搬」の章に40ページも割かれています。

切り出された木は「木馬(きんま)」と呼ばれるそりのようなもので水辺まで運ばれました。

隣接する資料館には、たくさんの大鋸も展示されていました。
おそらく掛塚の鋸鍛治の手によるものと思われますが、残念ながら刻印は確認できませんでした。
向きが逆ですって(笑)

資料館には、他にはこんなものも。
年輪が年表になっていて、第一次世界大戦の年、東京オリンピックの年…などの出来事が記されています。これはいいね。


さて、水窪川が天竜川に合流する西渡(にしど)というところは、木材を集積して筏に組む拠点でした。天竜川の上流から流れてくる筏を組み直すこともあったそうです。


水窪川は水量が少ないので、筏ではなく下の写真(「佐久間の民俗」の掲載写真を複写させていただきました)のように一本一本バラバラと流す管流し(川狩り)という手法で運ばれていたのだそうです。この光景は想像をはるかに超えています。


ここで組まれた筏は、途中の二俣で別の船頭に引き継がれ、河口の掛塚まで運ばれ、曾祖父さんたち木挽(こびき)の手で板や角材に加工され、掛塚湊から出荷されていったんですね。

文献の多くには、「東海道線が開通して明治30年頃になると、筏は掛塚の上流の中野町で引き揚げられるようになった」と記されていますが、親父の若い頃(終戦直後)でも「二俣の船頭がうち(親父の実家…つまり「くりものや」)の二階にしょっちゅう泊まっていった」そうなので、ダムができて筏による水運が廃止されるまでは、一部は掛塚まで来ていたんでしょうね。

ここ佐久間は、自分にとってアウェイな場所のはずですが、とっても居心地がいいのは、この会場に「みんなと倶楽部・掛塚」でお世話になっている方が3名いらっしゃったから、だけではないと思います。 


ここ佐久間の山香地区にも「貴船神社」が


平成18年に廃校になってしまった山香小学校の校庭跡には、今も残る大クスノキ
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